雄大な奥羽山脈、朝日連峰がそびえる中、芭蕉の「おくのほそ道」にも詠まれた母なる川、最上川が県内をつらぬく。山形県は人の顔を横にしたような形の県だ。この地にどんな顔、どんなYamagata Mindが待っているだろう。そんな思いを胸に高速道路が山形県に入ると、山々の大パノラマに目を奪われる。四方八方、山しか見えない絶景は、人の気配を消し去るような雄々しさ。都市では想像できない自然のダイナミズムに圧倒されながら、向かった先は「山形にでん六あり」といわれる豆の老舗である。
大正13年創業の株式会社でん六は、「おこし」の製造にはじまり、昭和31年に発売した「でん六豆」が爆発的な人気となり、一躍全国に知られる存在になった。発売50周年を超える今も、節分になると、でん六豆が全国の店頭を飾り、各家庭に「鬼は外、福は内」と懐かしい声が響く。世界にハイテクの国と知られる日本にあって、古くから続くしきたりが今なお「現役」の理由は、〈豆〉という自然素材と〈人〉の交差するところに、でん六のフィロソフィがあるからだ。地元の風習、地域の人の思いをなによりも大事に思う経営者の心情には、地域貢献を第一と考える深い郷土愛があり、その先にはエコロジー思想がしっかりと根付いている。
でん六は山形県の会社である。単に山形県にある会社というだけではなく、山形県そのものの香りを放っている。地元・山形はもとより、全国にキャラクターを使ったプロモーション展開をするでん六の本社は、さぞかしポップでモダンなオフィスと想像して訪れた本社は、レトロなつくりで建物のそこかしこに創業者の意思が息づいていた。敷地を覆う落花生を焙煎する香ばしい香り。食品メーカーらしく、どこも清潔そのものだ。応接室は創業当時そのままといった雰囲気をたたえ、作りかけのテーブルや椅子が歴史を語っていた。
創業者は6番目に生まれた、鈴木傳六氏。昭和31年に発売した「でん六豆」が大ヒットし、その後社名も「でん六」になる。山形県から県外に販路を広げるため、仙台に拠点を構え、でん六豆を1店1店と増やしていき、いつしか東北一円に広がった。さらに、新潟、長野と販路を増やし、やがて東京に進出したとき、山形の営業が東京では受け入れられず、「東北の山猿は帰れ」と言われ、苦労したと聞く。東京のやりかたを知らず、東北の強気のやり方で押してきたが、東京の市場を知り、受け入れられるのは、しばらく後のことである。
地方で生まれた会社が大きくなると、本社を東京に移し、大きく成長することがある。けれど時にその過程で地方色が薄くなるケースがある。入社時は意識してなかったが、役員になる頃から、地域の特徴やよさを持ち続ける会社でありたいと願うようになっていった。それはでん六という会社が地域から受ける有形無形の恩恵を実感するようになったからだ。県民の方々に応援いただくことはもちろんだけど、会社で働く人たちにもお世話になっている。その気質はおだやかで、ねばり強い。この山形県人のよさは、県外に行くようになって、じわじわと実感するようになった。
初代が傳六、2代目が鈴木傳四郎。3代目だけ、「傳」の字がない。2代目の傳四郎社長は、隆々と会社が発展することを願っての隆一と命名したという。いかにも、代を重ねた企業経営者らしいエピソードだが、若い隆一社長には、このいきさつが重くのしかかるのである。
子供時代は自宅と工場が近く、「隆ちゃんは3代目だね」、隆一社長は工場のおじさん達にかわいがられて育った。その頃、父や母は、祖父・傳六元社長になにかときめ細かな気遣いを見せた。幼い時から祖父に叱られた記憶はないのに、周りの反応を敏感に感じていた。癇癪を起こすと思えば、また驚くほど上機嫌なこともある。厳しく、気難しい反面、やさしく人間味あふれる人物でもあった。家父長的な威厳のある祖父母、父母を見て育ち、また、工場の人たちに囲まれて暖かな環境で育った。当時、会社の人や親せきから「3代目」とよく言われたが、不思議と父母からは言われたことがない。子供心に、「社長というのはどんな仕事なんだろう、僕にできるだろうか」、人知れず不安を抱えていた。創業者で地元からも一目置かれる祖父、またそれを受け継ぎ、数々の功績を残した父…。3代目としてその責任を背負うことに不安だった。大学時代、親元を離れ、会社経営や祖父母、父母の置かれる立場を客観的にみるようになった頃、よーし、頑張ろうという気になった。思えば、山形県人のよさを感じた時期と重なる。じわじわと山形県人のねばり強さがめばえたのかもしれない。